綿が棉に変わるまで:米市農園、和棉組

2012年11月 米市農園和棉畑にて

畑に咲いた棉の花が、ほぐされて綿になり、紡いで織って木綿になる。 棉はアオイ科の熱帯地方が原産とされる植物で、あまり寒い地方では育たないとされる。 見たことのある人は少ないかもしれないが、芙蓉のような美しい花を咲かせ、実をつける。 その実が熟してはじけたものが、いわゆる綿花。 コットンボールともいわれる中に種を含んだふわふわのかたまりである。 はじけて白いわたが顔をのぞかせた綿花は、オブジェに飾られることも多いので、 見たことのある人は多いと思う。

棉には、米棉、インド棉など、いくつかの種類があるが、 日本で伝統的に栽培されてきたのは和棉である。 在来のものではなく、外国から持ち込まれたものが、日本の気候に順応し固定したものである。日本に棉が伝来したのは室町期頃と言われ、戦国期の徳川家康は大量の木綿を備蓄していたと言われる。ことに木綿が日本全国に普及したのは江戸期といわれ、河内・摂津・和泉、三河・伊勢は一大の産地として栄えた。いまのわれわれからすると、とてつもない労力を要する木綿作りに思えるが、それ以前の麻に比べれば、糸作りに要する時間は10分の1とも言われ、布を得る手段として、木綿は画期的に早かったのである。また、棉の重要な側面は、棉が税金のかからない作物だったことにある。木綿はなにより金になった。日本人が棉をうえたのは「それが儲かったから」であることも忘れてはならない。しかし、繊維が長く、丈夫で加工しやすい洋棉に押され、和棉はまたたく間に衰退。 棉の自給率は、明治中頃には100%だったものが、いまではほぼ0%である。 米市農園の和棉組の活動は、棉の自給と和棉の伝統をもう一度取り戻すために和棉の服を作ろう!というプロジェクトである。 現在のメンバーは30人ほど。棉を育て、糸を紡ぎ、布を織り、服を作る一連の過程をみんなでやる。 衣料の自給、織り上げた木綿の野良着を作るのが目標だ。 その和棉組の活動について、米市農園の高橋さんご夫妻にお話をうかがい、 実際の作業を見学・体験させてもらった。


◎和棉組について

――和棉組をはじめたきっかけを教えてください。

洋平:自給自足を目指す米市農園にとっては、衣料の自給はとても大事なことです。 最初に、米、野菜、食べ物は出来た。次に住むところも、廃材を使った建築で、だいたい出来るようになった。 じゃあ、次は衣食住の衣、ころもをやっていこうじゃないか、ということになりました。 ここで、エネルギーの自給を目指す人も多いんだけど、僕たちは棉というものに興味があったので、棉に取り組むことにしました。 棉にはいくつか種類があって、米棉、和棉、印度棉などがあります。 和棉は、日本で伝統的に育てられてきた棉です。でも、だんだん少なくなってしまった。 今はまた、各地で育てられるようになって、どんどん増えては来ているんだけど、その和棉で服を作ろうじゃないか、ということになった。 それは、自給自足を目指す米市農園にとっては、すごく大事な仕事。ほかの人がなんと言おうと。

自然農で棉を育てて、収穫して、糸に紡いで、糸を織って布にすれば、服が出来ます。 でも、現状でいうと、その工程はすごく、果てしないんですね。 実際、僕らも糸までしか出来ていなくて。 最近、高機(たかばた)をもらったんですけど、織るところまで糸の量がそろわない。 棉から綿にするのは、すごいことやなあっていうのが、実際にやってみるとあります。

でも、それぞれの国が、それぞれの国で、自給が出来ないと、平和にならないと思うんですよね。 エネルギーの問題でも、衣料に関しても。いま、棉のほとんどは外国で作られています。 でもその裏を見ると、大量の農薬が使われて、環境破壊が広がって、地下水が汚染されている。 そんな現状よりは、みんなが服を作れるような力が出来たら、もっとよりよい社会が出来ていくんちゃうかなあ、というのが、和棉組の出発点です。 が、現状ほど遠いですね。もうちょっといいアイディアがあったらいいんですけど。

みやちゃん:一番最初の年は、洋平さんも焦っていて、棉を作ったらすぐ服にしようと思って、いちど紡績工場に持っていったんです。 棉だけ作って、あとは頼めないかなあって、その辺はいろいろ当たってみました。 でも、和棉を布にしてくれるところはありませんでした。いまの機械は、米棉じゃないと紡げないんです。だから和棉が淘汰されて、どんどんなくなってしまった。 オーガニックコットン? 洋棉ならやってあげるけど、和棉は無理って、みんなに言われて。 じゃあ手でやるしかないよね、ってなったときに、和棉組を作ろうかってなったんです。 出来ないのだったら、みんなでやろう。手作業は果てしないので、協力してくれる人を集めようってはじまったのが和棉組です。

――糸まで手作業にして、あとは頼むことは出来ないんですか。

洋平:出来ると思うけど、その技術はいります。もともと、和棉は洋棉よりも、千切れやすいんです。 それを糸車で紡ぐから、よっぽど上達していないと、千切れやすい糸が出来る。そこまでのものが出来ればいいけど、いまはまだそこまで行ってない。糸もほんのちょっとしかなくて。

みやちゃん:機械で紡ぐのを止めて、自分たちで全部やっていこうよってなったときに、糸だけ作ってあとは持ち込もうっていう発想はなくなりましたね。

洋平:途中で消えたね。

みやちゃん:活動をするなかで、実際に全部の工程を自分でしている人たちとの出会いがあったんですね。 そこで、ああ、糸って織れるんや、自分たちで全部出来るんだっていうのが見えてきたので、糸だけ作ってあとは頼むっていう発想は、あんまりなかったです。 織ってくれる人も、織れる人も、つながりのなかで出来てきました。だから、糸が出来たら織るところまで、ビジョンは出来てるんです。

洋平:あとは糸をたくさん作ればいい。

みやちゃん:和棉組も、来たいときに来て作業してね!っていうのではじめたんですけど、なかなか実際に来て作業するのは難しいですね。

――たとえば家で作業することは出来ないんですか。家で糸車を紡ぐとか。

みやちゃん:そのための道具がかなり高いんです。よっぽど本気じゃないと買えません。それに、実際に作業をしている人たちって、一日中その作業をしているんですね。 何かの片手間じゃ出来ません。ふだん小さい子供がいるお母さんには無理だと思うし。 だから、興味を持って来てくれる方はいるんですけど、体験だけで終わってしまって、実際の作業には結びつかない。

洋平:時期が来たら、どんどん進んでいくのかなと思うんだけどね。そのタイミングを待っている感じです。いまはちょっと動けないので。

――棉を育てることについてはどうですか。

洋平:棉は、自然農で育てることも出来るし、肥料をあげて育てることも出来る。 ただ、自然農だと収量は少ないです。耕した場所、肥料をあげた場所だと、もっと取れる。 肥料の入れ加減でぜんぜん違います。育てることに関しては、どこでも出来ると思う。 いちばん楽なのは、肥料をちょっと入れて、耕したらがっちり育つ。でもそれは僕はあまりしたくないんで、 自然農で小さく少なく収穫して、やってます。 去年は自然農でやって、だいぶ少なくて種が取れなかったから、今年は耕したところでやった。肥料はいっさい入れてないけど。 種を別のところから分けてもらったので、失敗できないというのがあって。でも、ちゃんと管理したら育てられると思います。

――和棉の全体の工程について教えてください。

洋平:五月ごろに、棉の種をまきます。これは直播、ポット播、どちらでもいけます。 植えつけた三週間後くらいに草刈をします。成長が悪ければ追肥をします。 支柱を立てる人もいます。でも自然農の場合はそこまで大きく育たないので、支柱を立てる必要はないんですけど、 背が大きくなったら支柱を立てます。収穫が花が八月下旬くらいに咲いて、十月くらいから、弾けた分から収穫が始まります。 霜が降りる11月くらいまで。今がちょうど終わるか終わらないかくらいかな。遅れれば遅れるほど、棉の質は悪くなります。これで棉が出来ました。 次は、棉の毛と種を分ける作業、棉くりという作業があります。 棉が分かれたら、今度は弓打ちといって、押しつぶされた棉の繊維を膨らませる作業があります。すると糸が均一になる。 そのあと糸紡ぎ。糸車を使って糸を紡ぎます。糸になります。 それを撚り止めといって、お湯につけます。あ、お湯じゃなくて灰汁かな。灰汁につけます。 それから、糊付けといって、小麦粉をいれたお湯に入れて、糊をつけます。そうしたらちょっと丈夫な縦糸が出来ます。 縦糸が出来たら、横糸と合わせて機で織れます。これで布の出来上がりです。

――この全部の工程を和棉組でするんですか。

洋平:そうです。だから、季節によっては、種まきの作業とか、草刈の作業。

――種をまきますよ、草を刈りますよ、といってメンバーにお知らせが届くわけですね。

洋平:そうすると、草刈か、やめとこか、ってなったりする(笑)。 手芸に興味がある人って、棉にすごく興味があるんです。 自分で取った棉で手芸やってみたい、って思うんですけど、いざ現実を見てみると、畑作業か、ってなる(笑)。

――たしかに、手芸好きな人と畑好きな人は、ぜんぜん違いますよね。

洋平:インドアとアウトドアで両極端だからね。(了)


米市農園和棉組、体験レポート



米市農園、和棉組の活動について、和棉から、棉くり、弓打ち、糸車で糸を紡ぐところまで、実際の作業を見学・体験させてもらった。 使うのはもちろん和棉。お試し用に、白棉と茶棉を見せてもらう。 米市農園さんで育てている和棉は三河棉。茶棉は作家さんから分けてもらった分だそうだ。


1、棉くり




ローラーのあいだに棉を通して、種と繊維に分離する。 この作業をしてくれるのが棉くり機だ。 棉を少しずつわけて、ハンドルを回しながら、グリグリとローラーの間に挟んでいく。 入れすぎると詰まるので、適度な量を。 詰まったらハンドルを逆回転して押し出しつつ、どんどん分けていく。


2、弓打ち




棉くり機の間を通って潰れた棉の繊維を再びふっくらさせる作業。 弓の弦をはじいて棉に当てると、ばちんとはじけて、棉の繊維がふっくらする。 棉の毛の潰れたところを狙うように、弓の弦をはじいていく。 何回かやっていると、弦のまわりにぐるりと棉が巻きつくことがあるので、 そうなったら強くはじいて棉を落とす。 潰れた棉がなくなるまで、この作業の繰り返し。 地道な根気のいる仕事。



ふくらんだ棉は、つぶさないよう四角に広げ、竹の棒でくるくると巻き取って棒状にまとめる。 これを使って糸車で紡ぎの作業に入る。










3、糸車




糸車は、①繊維を伸ばす、②撚りをかける、③巻き取る、この三工程の繰り返し。 糸車と並行に座り、右手でハンドルを回し、左手に棉を持つ。 体の正面にピンと出た錘が糸車の命である。 それほど弱いものではないが、曲げると作業が出来なくなるので、注意が必要。 右手でハンドルを回しながら、つむの先から棉の繊維を伸ばすように左手を引く。 ハンドルは手前へ手前へ、一定のスピードで回し、糸の太さは左手を引くスピードで調整する。 早く引けば糸が細く、遅く引けば糸が太くなる。 左手は、左の腰骨の位置を目指して引いてきて、腰骨まで到着したら、繊維の先を指でつまんで、右手のハンドルを2~3周まわす。 そうすると伸ばした繊維に撚りがかかって糸が出来る。 糸の太さにむらがなく、均一に出来たらパーフェクト。 出来た糸を巻き取るために、今度は右手を軽く逆に回して、糸の先をつむからはずす。 再び右手を順回転して、くるくると糸をまきとる。 このあいだ、糸が動かないように、繊維の先はつまんだまま。 糸が巻き取れたら、錘の先に糸をかけて、ふたたび繊維を引き出す。 あとはこの工程のくり返し。







見た目は簡単なように見えるが、実際に自分が体験をしてみると難しい。 棉の繊維がうまくのびず、だまになったり、細くなったり、途中で切れてしまったり。 丈夫な糸を紡ぐには、太い細いよりも、糸の太さが均一であることが大切なのだそうだ。 職人はものすごい速さで紡いでいくが、素人には糸にするだけで大変だ。

体験に参加すると、紡いだ糸でドリームキャッチャーを作らせてもらえる。 小さな輪に、くるくると糸を巻くだけなのだが、その間に何度も糸がブチブチと・・・。




◎棉の畑




休耕地から開かれ、耕して植えられた棉の畑。 耕している以外は、自然農的な栽培。肥料をあげていないので生長は小さめ。 大体の収穫は終わり、最後の収穫といったところ。 かわいらしい棉の実がところどころに弾けていた。日の暮れかけた棉畑で、本日の和棉体験はこれにて終了。








米市農園、高橋洋平さんインタビュー


◎米市農園母屋にて、代表の高橋洋平さんへのインタビュー


2012年11月某日、和棉組の見学とともに米市農園代表の高橋洋平さんにお話を聞かせてもらいました。米市農園の歴史や成り立ち、自然農との出会いなどについてうかがいました。

――米市農園の成り立ちを教えてください。

ここは母方の祖母の家です。母の世代は三人娘で、高橋はいちど絶たれちゃったんですよ。でもうちの母親だけ、末っ子なんですけど、この近くに住んで家の手伝いをしていたので、結婚相手に同じ高橋という相手を選んだんです。この家でも動きやすいように。だからうちの母がここを継いでいく形になりました。

うちの家は「市衛門」というのが代々受け継がれている名前で、秀吉が攻めて来たときに、兵を500人連れて迎え討ったとか、当然負けたんですけど。明治の初年には、陸奥宗光に連れられ、アメリカへ留学していました。

そういう感じで、この辺ではずっと歴史が続いている家で、ずっと米屋をしていました。お米を集めて、酒造りをしていたんですね。お国に上納するお米を集めたり、道を作ったり、小作人をつかってお米を作ったりもしていました。

祖父はこの家を親戚に住まわせて東京で進学し経済連盟(戦前の経団連のような組織)の調査部長をしていましたが、大阪に転勤になった時、親戚が銀行(前、和歌山相互銀行)の倒産に引っかかり、家が競売にかけられてしまった。その時に祖父はこの家を買い戻す形で帰ってきました。

――家が競売に。ドラマチックですね。

今度は僕の家の話。僕の家は隣町の岩出にありました。こっちに移ってきたのは高校の時です。父は自営業をしていて、いろんな事業をやって、最後は服の卸売りに落ち着いたんですが、不景気で、このままじゃこれから先生きていけやんな、ということで、農業をはじめたんです。そのころは、この近くにある直売所に卸す切花を作っていました。農薬をやって、化学肥料をやってという、ふつうの慣行栽培です。

父と母で農業をしていたんですが、数年したとき、父の病気が発覚しました。癌ということで。それが僕が高校二年生のとき。そこから父が勉強をはじめて、癌を克服するために、玄米療法にたどり着きました。でも一人でするのはいやだからといって、家族みんなですることになりました。そのときに、無農薬の野菜というのにも、興味を持ち始めました。ここまでが家族の生業かな。

僕、といえば、父がここで農業をしはじめたのが、中学校のときでした。そのころはネットゲームばかりしていて、特に成績はよくありませんでした。特に、というか、よくなかった(笑)。近くの便利のいい高校に入ろうとしたんですけど、担任の先生に「止めとけ。奇跡的に入れたとしてもまず上にはあがれやん」と言われて(笑)。農業高校をすすめられて、なんとか入ることが出来ました。

農業高校は、教科書の授業といっしょに、農業の授業もあるんです。大根の種をまいたり、ほうれん草の種をまいたり。だったらここでも畑があるからやってみようかな、と野菜を育て始めました。でも野菜できたのはいいけど、売るところがない。近くの直売所で売るのもいいけど、もっと違う売り方を考えようということで、あちこちのイベントに出店するようになりました。そのときに出会ったのが伊川健一くんです。僕らの隣が伊川くんのブースで、そのときはじめて、自然農っていうのがあるのを知ったんです。自然農とはなんぞや、ということで、伊川くんのところにいったり、川口さんの赤目自然農塾に、月1回通うようになりました。

それで、すごくびっくりしたんですよ。農業高校で、農業を教えてもらうんですけど、農薬をやる、化学肥料をまく、草をとる、耕す、そういう農業しか教えてくれないから。家では無農薬だったんですけど、それも既存の肥料の与え方を出ない。それとはまったく別のやり方で、野菜が育つっていう新しい価値観に、すごいびっくりしたんですね。つきつめていくとお金を中心としない考え方っていうものに、すごく惹かれたんですよ。そのときに玄米療法をはじめた父とすごくシンクロしたっていうか。僕はやっぱり、そっち側で生きて生きたいなあと思って、自然農でやりはじめようと思いました。それが今から十年前。

――洋平さんは何年生まれですか。

1985年。昭和60年。いま27歳です。そのときは17歳でした。高校2年生。

――高校に行きながら、野菜を作ったり、販売したりしていたんですね。

そうです。伊川くんも、高校2年生のときに自然農に出会ってるよね。その頃は姉といっしょに農業をしていました。金魚の糞みたいに、姉の後ろにくっついて。僕は五人姉弟の長男で末っ子で、上四人が全部姉です。農業をしていたのは、三番目の姉で、パン屋で修行していたんですが、やめて帰ってきて、畑をしていました。

高校三年生のときに、父が亡くなりました。余命一年といわれていたんですけど、宣告されて一年三ヶ月。玄米で三ヶ月寿命がのびた(笑)。でもお母さんから言わせると、癌で亡くなった親戚をいろいろ見てきたけど、お父さんがいちばん楽に死ねたと言っていました。玄米のおかげやねって。

でもなにより、玄米で僕らが体調が良くなったんですよ。そのときはいちばんストイックにお菓子も肉も食べていなかったんですけど、すごく体調が良くなって。すごいパワーやなっていうのを感じました。やっぱりこっちがいいなっていうふうになりましたね。いまはいろんな考え方があるから、お菓子も肉も少し食べるようになったんだけど、昔はストイックでした。

こういった大切なことっていうのは伝えていきたいなっていうのがあって、体験農業をはじめました。月一回の野菜教室です。命のありがたさとか、耕さないとか、自然環境に負荷がかからないあり方とか、健康に生きていくことの大切さを伝えていくことをはじめました。

僕は高校を卒業して、園芸の学校に進学したんですけど、授業の内容がいまいちしっくりこなくて、家の仕事が忙しくなったのもあって、一年で学校はやめて、家の畑をするようになりました。でも、こういう農業のあり方って、すぐに収穫に結びつかないんですね。家の仕事が、忙しくはなるんだけど、野菜が出来ない。出来ないことはないんだけど、収益に結びつかない。お金に結びつけるとか、生活できる対価に変えることが出来なかった。自然農の場合は、お金にかえていくなという部分もあるから、僕らもうまく動けなかったんです。

そうやって姉といっしょに、三年くらいやってたんですけど、姉もだんだん辛く、しんどくなってきたんで、結婚を機に農業をやめて、この家を出ました。それで僕も、畑からちょっと落ち着こうということで、アルバイトをはじめました。バイトをしながら、ちょこちょこ畑をする感じで。それまでは「米屋市衛門」という名前だったんだけど、「米市農園」に名前をかえて、それが僕がやっていくスタート。

――それが何年前ですか。

僕が19歳のときだから、8年前。はじめの2年間はバイトをしながらやっていました。

自然農だけじゃやっていけなかったので、耕した有機のやり方と、二本立てでやっていました。それでも、有機のやり方でも、無農薬で野菜を作るっていうのは、本当に難しくて、少しずつ、少しずつでした。いまでも、完全に耕していないか、機械を使っていないか、っていうとそうじゃない。畑に関しては、だいぶ自然農の部分が増えてきたんだけど、まだ全部じゃありません。

はじめの2年間は野菜販売もやっていました。ピザ屋が5年前からはじまりました。WOOF(農的ホームステイ制度)が6年前。和棉組がはじまったのが4年前。3年前に生産組合をはじめて、去年「紀州農レンジャー」に名前を変えました。

いまは、米、大豆、麦、棉、旬の野菜、全体を合わせたら二町歩の畑と、草とともに生きています。4月から10月末まで、土日祝日にピザ屋を営業していて、体験農業は随時。イベントは3日に1回は何かしらあります。

――イベントはそんなに多いんですか。

多いですね。水力発電について勉強しようとか。東京からアーティスト来るからライブしようとか。地元のお祭りに参加したり。アフリカンミュージックも僕らはやっているので、演奏会とか。移動式ピザ屋で、マーケットに行ったりとか。

――いろいろですね。

つい一ヶ月ほど前からはじまったのが、和歌山市での一人オーガニックマーケット。仲間が集まったらいいんだけどね。シャッター街の商店街で、毎週月曜日、一人でマーケットをしてる。一人デモもやってる。駅前で、原発のことについて、みんなに立ち止まって考えてもらいたくて。

――そもそも農業以外のことをしようと思ったことはありませんでしたか。

もとをたどって? そうですね、僕の場合ちょっと特殊だったんだけど。農業からは逃げたかったですね(笑)。もうこの家がしんどすぎてね。ずーっと伊川くんのところに行きたかった。お茶やって畑やっていいなあって。 でも僕は、逃げたかったけど、逃げる勇気がなかったんですね。すごい優柔不断だし。動けませんでした。だから、そのはじめは、何かしら僕がここにいる理由を探していたと思う。そのために勉強をして、あっ環境問題大切やからここで農業してるんやとか、あっ体が大切やから農業してるとか、そういう理由付けを探していたと思う。そのはじめは。僕なんぞが就職できるなんて、とも思ってたし。でも、ある程度かたまってきたら、やっぱりほんとに大切なことやし、やっぱり畑なんかな、って思えた。大借金も抱えて、もうしんどいわってときもあったけど、それ以上に踏み出すことは出来やんかったね。うん、出来ませんでした。

――和歌山に自然農の仲間はいますか。

毎月、種の交換会というのをやっていて、事務局は僕じゃないんだけど、うちで毎月開催してます。それで、自然農の仲間が和歌山にも集まっています。来るのはだいたい10人くらいで、一品持ち寄りなんだけど、それが豪華なんですよ。毎回。大好きでね。自分の畑で出来たものを料理して持ってくるから、もう美味しくて。その人たちは、生産組合(紀州農レンジャー)には入らないんですよ。生産組合も、種の交換会には来ないんですよ。和棉組もかぶる人は少ないかな。交わらないんですよ、うん。なんでなんでしょうね(笑)

(了)


【インフォメーション】


米市農園(代表:高橋洋平)



〒649-6443 和歌山県紀の川市北中216
TEL&FAX:0736-77-3716
mail:y.t*komeichi.net(*を@に代えて送信下さい)
HP:http://komeichi.net/

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