2013年4月 レインボーウサギハウス:味噌とラップと線量計

2013年4月 レインボーウサギハウス:味噌とラップと線量計


春うらら、桜も満開の4月1日、上子島の古民家には、福島のママさん二組が、子供たちといっしょに保養に訪れていた。今年の一月にはまだ改修の真っ最中だったこの家も、新しい畳が入り、トイレも出来て、人が寝泊まり出来るところまで、改修が進んでいた。いたれりつくせりのサービスがついた宿泊施設ではないし、改修もまだ途中。未完成な部分も多い。完成形をサービスとして提供するのではなく、互いに与えあいながら完成させていく。そうしたチャレンジの場として、上子島のレインボーウサギハウスははじまった。レインボーウサギハウスというのは、福島のママさんと子供たちが活用する保養所としての名前だ。上子島の古民家に福島のママさんたちを招待する試みは、エナファームの青木さんと、東北支援のNPOで活動する藤田央さん(通称トロさん)のつながりからはじまった。トロさんは震災以降、被災者支援に活発に動いており、久米島の保養所立ち上げにも関わった。レインボーウサギハウスはその延長にある仕事で、トロさんがこれまで行ってきた7色のウサギをイメージにした子供支援の活動からとって、「レインボーうさぎハウス イン上子島」なのである。上子島の古民家は、エナファームの主催するアカルイミライプロジェクトの拠点となるのはもちろんのこと、保養所としての活用、アーティストインレジデンスとしての利用など、さまざまな人たちの行き交う場として、開かれた家になるはずだ。

今回、レインボーウサギハウス イン 上子島を訪れたのはいわき市のママさん2組。それぞれお子さんは2人。ぼくとしてはなぜ「ママさん」で「パパさん」でないのか気になるところだが、いまは省略。子供たちは、奈良に来る前からの知り合いで、すでに仲良しであるらしく、いっしょになって遊び回る子供たち4人ともなると、ものすごいパワーである。ぼくが家に行ったとき、すでに福島の家族2組はすでに2泊目。ちょうど朝ご飯の時間で、ぼくよりもこの家に慣れた様子でちゃぶ台を囲んでいた。ぼくが以前訪れた3ヶ月前から家はすっかりきれいになっていて、見違えるようである。畳が新しく入り、居間にはいろり。土間もきれいになっていて、かまどには薪の火が入っていた。水道も電気も通り、汲取式の便所もできて、人が生活する環境は十分に整っていた。まだ改修の終わっていないところもあったが必要十分。人が行き交い火の入った家は、以前の暗い空気が抜けて、生き返ったようだった。


朝食はかまどで炊いた白米の卵かけごはん、みそ汁、おかずの一汁一菜。質素なようにも見えるが、実はたまごは「のらのわ耕舎」さんのとびきり美味いたまごであったり、野菜もオーガニックであったりと、とびきり贅沢な食事である。となりの部屋では、大人1人をおもちゃにして子供4人が暴れていて、朝から大騒ぎ。昨日からずっとこうして大人1人が餌食になっているという。朝食がすむと近所を散歩。近くの川までやって来ると、子供達は勢いよくブロックの斜面を下って河原におりていく。河原は草ぼうぼうで足元が見えないが子供たちはおかましなしである。薮をこいで歩いていくとカメを見つけて大騒ぎ。顔に赤い筋の入ったよくいる外来種だろうとぼくなど思うが子供たちは珍しいらしい。「うさぎハウスで飼うんだ」と河原から持ち帰るがそのあいだにもおしっこをしたり逃げ出したり、大騒ぎし通しだ。

2組の家族のやって来たいわき市は、ぼくたち関西の人間は名前は聞いたことはあっても、どこにあるのかピンと来ない。いわき市に限らず、関西人にとって東北は遠い場所だ。ぼくもこんなことがなければ話を聞くことはなかったと思う。
福島は大きく分けて三つの地域からなるという。海沿いの浜通り、中央の中通り、内陸部の会津地方。浜通りと会津ともなると、文化も違いお国柄はずいぶん異なる。浜通りは津波と原発で甚大な被害を受けたが、会津地方の被害は皆無。「風評被害」という奇妙な言葉も出回った。浜通りには、相馬市、南相馬市、飯館村、楢葉町、双葉町、浪江町などがあり、いちばん南にいわき市がある。となりはもう茨城県だ。東京からのアクセスも良く住みやすいため、移住者の多い土地なのだという。
そう世間話をしながら歩いていると、
「ここは原発から何キロですか?」
と尋ねられて
「えっ」
とぼくはことばに詰まった。
原発から奈良が何キロなのか、考えたこともない。
いちばん近いのは若狭湾の原発銀座だろうなと思う。30キロ圏内ではないと思うが正確な距離は分からない。 それほど近い距離ではないと思うが、直線にすると意外に近いのかもしれない、などとウロウロ考える。
「けっこう遠いと思いますよ」
と、ぼくはあいまいにしか答えることが出来なかった。
結局、奈良にとって、原発の問題は他人事なのだ。滋賀や京都で議論がわき起こっても、「盛り上がっているなあ」と思う程度。本当に自分のこととして考えているわけではないのだ。結局は。
原発立地県でも隣接県でもない。行政が被災者に冷たいのがこの県の特徴で、県内の放射線値を測定したのもこの県が最後だった。保守的、というその一言に尽きるのかもしれない。津波もなければ火山もない。大地震は来ないだろうと思っている。この県で「放射能」と言い立てるのは、逆に白い目で見られることを意味する。原発の問題は所詮対岸の火事だった。ぼくも含めて。原発を気にすることが日常である福島と、異常であるこの奈良と。福島の日常。奈良の日常。

 


レインボーウサギハウスにカメを連れて帰ると、子供たちはさっそくカメの家作りに取りかかった。中庭で雨ざらしになっていた手水鉢を見つけると、これをカメの家にするという。雨水がたまって、藻と苔と泥で汚れきった石の鉢を洗うのは、もちろん大人の仕事である。カメといっしょにカエルも捕まえてくると、それも鉢の家に閉じ込めておおはしゃぎだ。

午後からは、上子島のある高取町の隣町、明日香村のレストラン、森羅塾(しんらじゅく)でシェフをつとめる高橋さんご夫妻を招いて、みんなで味噌づくりにはげんだ。みんな、といっても、子供たちは途中から脱落して、最後は大人だけで作ることになったのだけれど。


味噌というと、ぼくたちは買ってくものだと思っているが、実はそれほど作るのは難しくない。熟成に時間がかかるだけで、工程はいたって簡単。材料は、大豆、糀。塩。ゆでて柔らかくした大豆をつぶして、糀と塩を混ぜ合わせ、熟成させれば完成だ。今回は、大豆8キロ分の仕込みに挑戦した。使う大豆は、エナファームで栽培した白大豆と、高取の老人会のおじいたちが作った黒豆。どちらも無農薬栽培の立派な大豆である。味噌のかなめ、糀は、高橋さんがレストランで仕入れている滋賀の農家さんのもの。農家さんも会心の出来だというその糀は、袋の口を開いただけでふわりと甘い香りが漂い、もうそれだけでうまそうである。
「この糀で作ったら絶対にうまい味噌が出来ますよ」
とシェフの高橋さんも太鼓判を押す。
配合の割合は、豆1キロ、糀1キロ、塩400〜500グラム。8キロ分の豆を仕込む。土間の竈で下ゆでをした大豆を電動ミンサーでつぶす。なるべく雑菌を入れないように、乾いた清潔な手で、大豆と糀を混ぜ合わせる。粒をなくしていくように、手の平で台にこすりつけるようにして混ぜていく。まんべんなく塩も混ぜる。
はじめ、子供たちは、熱々の大豆を冷ますべく、うちわであおいで手伝ってもらっていたのだけれど、カメとカエルが気になって仕方がなく、
「逃げないように見張ってて!」
と大人に命令しながらも、とうとう最後は自分たちで見張るべく、うちわを捨てて、走って行ってしまった。あとは残りの大人たちで、もくもくと豆をこねる。

「福島のママさんたち、みんな線量計を持ってるんですよ」
とエナファームの青木さんが言い、
「そうなんですか」
とぼくが驚いていると、
「ぼくたちも持っていますよ」
と高橋さんが当たり前のように線量計を取り出して見せてくれた。
森羅塾の高橋さんご夫妻も、いわき市の被災者である。原発の事故があり、まだ余震や津波の危険の残る中だったから、「これは大変なことだから」とふさがった道をかいくぐるようにして着のみ着のまま関西に避難した、と聞いた。高橋さんが見せてくれた線量計は、黒い小型のタイマーのような見た目をしていた。傍目には万歩計のようにも見える。関西のぼくたちに、見慣れないモノ。


白大豆と黒豆でマーブル状になった大豆団子がある程度まとまってきたら、今度は大豆のゆで汁を少しずつ加えながら、ほどよい堅さにまとめていく。こねあがったら、次はボール状にまとめて、みそ壺に投げ入れていく。団子を壺に叩きつけて、できるだけ空気を抜くためだ。なるべく空気に触れない方が、酸化の防止になる。味噌に言霊を込めるべく、「おいしくなれ」と唱えながら団子を投げる。味噌壺がいっぱいになったらふたをして作業は終了。ちょうど壺にふたにするよいものがなかったので、しばらく思案したのだが、できるだけ空気に触れない方がいいということで、タネにぴったりラップをかぶせて、ふたをすることにした。いまはこうして手軽に便利なものがあるが、昔はどうしていたのだろう、とふと思った。

味噌が熟成するまでに、最低でも半年かかる。普通は2月の寒い頃に仕込むそうだが、今回は4月仕込み。蔵などで常温保存でもよいそうだが、うまくいくかどうかは蔵のポテンシャルによる(温度が一定か、良い菌が住んでいるか、etc.)。今回は初めての挑戦で、うまく行くかは分からなかったが、この家の力を信じることにして、8キロのうち、6キロを常温で、2キロを冷蔵庫に入れることにした。いつ来ても中に入るとひんやり涼しいこの家のパワーを信じたい。


大人たちが味噌づくりにはげんでいる間、子供たちは家の裏で、石の鉢に石を積んで、立派なカメの家をこしらえていた。2段重ねの2階建てのような立派な家である。そのあいだも、もっと大きなカエルを捕まえたり、水たまりの底にいるイモリを捕まえようと忙しい。大人は子供たちの手下になって「あれとって! これやって!」と言われるまま右往左往。
うららかな、ひたすらのどかな春の日の光景だったが、いわきでは子供たちがこうして一日外で遊ぶのは難しいのだという。もちろん、放射能の影響で。だが、福島では、放射能の懸念を口にすることは出来ない状況にあるのだという。放射能というと、攻撃されたり、村八分にあう。まるで、戦時中の箝口令のような。現実に、放射線に影響された生活を送りながら、それを口にすることが出来ないという奇妙な状況。その話を聞いて、「やっぱり」とも「まだそんな」ともいえない、複雑な思いがした。それはつまり、福島のリアルが、それだけぼくたちに伝わってきていない、ということでもある。ぼくは、伝聞系で、で福島の話を漏れ聞くだけで、結局それがうそなのか本当なのか分からない。少なくとも、マスコミを通じた公式発表で、そんな話を聞いたことはない。それは、福島が忘れられているからなのか、黙殺されているからなのか。
ぼくたちは福島のいまをなにひとつ知らない。

ふと、味噌の仕込みが終わったテーブルの上を見てみると、味噌壺と、ラップと、高橋さんから見せてもらった線量計が並んでいた。何気なく置かれたその光景は、まるでいまのぼくたちの状況を象徴しているようだった。
手間暇かけた味噌という古き良きものにあこがれながら、石油からできたラップという便利なものを使い、線量計という得体の知れないものとともにある生活。
ぼくたちはずいぶん奇妙な、ゆがんだ世界に生きているのだと思った。



味噌作り、作り、作り。


釜でごとごと豆を煮る


寸銅で下茹でした豆


豆がゆであがりました


豆をうちわであおいで冷ます子供たち(のはず)


森羅塾さん一押しの糀。このままつまんでも美味い!



こうじのかたまりをつぶしつつ塩とこうじを混ぜる


ミンサーで大豆をつぶす



豆、糀、塩を手で混ぜる



ひたすら混ぜる


まとまってきたらあめ(大豆のゆで汁)を少しずつ加えてほどよい堅さに調節


にぎりこぶし大の団子状にまとめる。
最後にこの団子を味噌壺に入れて熟成させれば出来上がり。