2012年7月 ぼくたちのアカルイミライ

家は緑に呑み込まれようとしていた。場所は奈良県高取町、上子島。
もとは武家の屋敷だったという築百八十年の古民家は、
五年ほど前から住み手がなく、あちこちから草が侵入をはじめていた。
七月の猛暑に人間はうなだれ、草だけが活き活きと繁茂する。







家は入口のつくりがゆがみ、戸が開かない。
少しだけ開いた隙間から、すり抜けて屋内に入る。
扉を抜けた向こうの屋根は、斜めにかしいで瓦が崩れ落ちている。
家全体が、いつ崩れ落ちてもおかしくない不吉な雰囲気。
壊れるときにはきっと、轟音を立てて崩れるのだろうな、と不穏なことを思いながら。



入口をくぐると右手に馬小屋があり、さらにすすむと二階建ての母屋。
坪庭をはさんで蔵と厠。
家のさらに奥にすすむと、中庭があり、離れと風呂場、農作業小屋、三つの井戸。
奥に抜けると向こうは畑だ。
主は武家だったが、小作人を使って農業をしていた家だという。
入口や離れや小屋にはガタがきているが、母屋はいまも立派である。
天井裏には太い梁が見え、黒々とした柱や、はしばしの材も立派だ。
台所は現代の生活にあわせて改装されていたが、
床の下には以前の土間やかまどが残っている。



家のなかには、以前の住人の残した荷物がどっさりと残っていた。
電気のない家の中は暗く、人の住まない家特有の、こもった空気がする。
子供用のすべり台、ゾウのじょうろ、絵本、先人の痕跡がそこここに散らばっていた。
子供連れの若い夫婦が住んでいたのだという。
それも五年ほど前の話。
集落に住むのは大半が高齢者。
子供の声はまるで聞こえない。









一階は畳の広間。
ふすまで仕切ると四つの部屋になる。
以前の住人が居間として使っていた部屋には、
いまも神棚がいくつも残されていた。
縁側の奥に二階へのぼる階段があったが、木がブカブカとして怪しく、
のぼることは出来なかった。
階段のすぐ下には蜂の巣の残骸が転がっていた。
どこから転がってきたのだろう。
二階から? それとも縁側?



高取町は、奈良県のなかほどに位置する人口七千人ほどの町である。
吉野の手前、明日香の隣。
近鉄電車の壺阪山駅が中心部にあたり、大阪阿部野橋から急行で四十分ほど。
十分大阪の通勤圏内に入る。
上子島の集落から壺阪山の駅まで車で十分。
実は大阪から一時間で着ける場所なのだ。



高取は山城の高取城を中心に栄えた城下町である。
山上に城があり、上から順に、上子島、下子島、上土佐、下土佐の順に集落が並ぶ。
城へと続く参道である土佐街道沿いには、いまも当時の面影を残す立派な家家が残り、
往時の繁栄をしのばせる。
そして、城下町であっただけでなく、高取は製薬の町でもあった。
いまも町には製薬会社が残り、町の一大基幹産業である。
街道沿いの立派な家家の様子は、製薬業で得た富の面影でもある。
高取だけでなく、大宇陀、吉野、御所一帯は、製薬で栄えた土地だった。
奈良の南側一帯は、古事記の昔から続く、薬作りの土地なのだ。
いまの感覚からするとこんな山の中に、と思う場所に豊かさの名残がのこるのは、
製薬というハイテク産業に従事していたからである。
いまの抗がん剤を考えればイメージは近いだろうか。
高取の往時の繁栄ぶりは、想像にかたくない。



上子島の集落は、参道から棚田に変わるあたり、
景色は急に、典型的な里山の風景に変わる。
小川が流れ、棚田が広がり、点々と家が立ち並ぶ。
まるでトトロの里のような、原日本を思わせる、典型的な中山間地域である。
平地が少なく、斜面に小さく棚田が広がる。
風景はどこまでものどかだ。

しかし、駅からも近く、車どおりの激しい幹線道路から一本入っただけの場所であるが、
この上子島もまた、住民のほとんどが高齢者という「限界集落」である。
よそものから見ると、うらやましいような素晴らしい環境に思えるが、
現代的な暮らしとは相容れない住みにくさが重なって、若者が居つかないのだろう。
いまはまだぎりぎりの状態で集落は保たれている。
五年後は、まだなんとかなるだろう。
しかし、十年後は? 二十年後は?
未来は見えない、あるいはない。いまのままでは。

 

上子島の問題は、上子島の問題であるだけでなく、
日本全土の問題の縮図であるだろう。
上子島の集落に、明るい未来を描くこと。
それがこの「アカルイミライ・プロジェクト」の目的のひとつである。

アカルイミライ・プロジェクトのこころみは多岐にわたるので、
ひとことでまとめるのは難しいけれど、新しいムラづくりのこころみなのだと、
そんなふうにぼくはとらえている。
上子島という限界集落で、新しいムラをつくること。
村おこしとか村の再生とかではなくて、新しいムラ=国をつくることなのだと思う。
ムラという国生みの作業。
アカルイミライ・プロジェクトが目指すのは永続的なムラづくりだ。



永続的というのは、集落の存続だけではなくて、食べるものについても、
エネルギーについても、収入についても、永続的であることを目指す。
だから、集落の営みの中心になるのは農であるし、
エネルギーも循環可能な薪や水車、ソーラーを取り入れようということになる。
農についても、永続性を追及すれば、農薬をつかわないオーガニックなものになる。

新しいムラづくりといっても、ラブ&ピースなヒッピーの楽園をつくるとか、
そういうことではない。
テクノロジーに頼らない自給自足のオーガニック村をつくるとか、そういうことでもない。
新しいテクノロジーも敬遠せずに取り入れつつ、持続可能なムラをつくること。
いまふうに言ってしまえば、パーマカルチャーな村づくりということになるのだけど、
あまりそういうふうに言ってしまいたくないという思いがある。
東京からもってきたこころみは、とかく地元の人を排除した都会人のためのものに
なりがちだったけれど、そういうものにはしたくないと思っているからだ。
ぼくたちは、地元の人といっしょになって集落をつくっていきたい。

ぼくたちは、そのどの人たちにも来てもらいたいと思っている。
ただ、そのどれかのカラーにかたよりたくないという思いがある。
特定の人たちの閉ざされたコミュニティではなくて、
いろんな人たちの交錯する、開かれた場をつくりたいと思う。
永続、交錯、循環、がアカルイミライ・プロジェクトの目指すものだ。

ハコモノのような一回きりの花火にはしたくないし、
もうけはあるに越したことはないにしても、それが最後のゴールではない。
永続性が目的であるから、百パーセントの満足は無理かもしれないけれど、
そこそこの楽しみと、そこそこの収入、そこそこの労働、そこそこの暮らし。
すべてに「そこそこ」を実現したいと思っている。
なにごとも、腹八分目がちょうどいいのだ。

 

永続的なムラの暮らしの中心にあるのは「農」であるけれど、
農を「業」として成立させることは目指さない。
戦後日本の農業をみれば分かるように、
農を業として成立させることにどれだけ無理があることか、
ぼくたちはあまりに見すぎてきたから。
とくにこの上子島のような中山間地域で農から収益をあげるのは、
あまりに無理がありすぎる。
むしろぼくらは農の複合的な価値に着目したい。
おいしくて安全な食べ物を自給すること。あまった分だけを売ること。
里山の棚田のような美しい風景をつくること。
きれいな水をまもること。災害に強い土地づくりをすること。
そうした農の複合的な価値。
本来なにかを育てるのは楽しいことであるはずだし、
ひとが自然に触れることにはいやしの効果が備わっている。
自然のなかで遊ぶことは楽しいことであるはずだ。
ひとの手の行き届いた里山の風景はどこまでも美しい。
ぼくたちの求めるものは、そんな遠くまで行かなくても、自分の手を動かすことで、
すぐ近くに作り出せるはずだ。
おいしい食べ物と、美しい自然。
そこに音楽やアートがあってもいい、と夢はどこまでも膨らんでいく。

いまぼくたちが日本の古いものに惹かれるのはなにか意味があるのかもしれない。
行き過ぎてしまったいまの暮らしに対する反動。
戦前の人たちからすれば、こんな古くさいもののどこがいいの、
と思うようなものに魅力を感じるのは、文化のないぼくたちにとって、
逆に新鮮にうつる。
もちろん、古いもののすべてを賞賛するつもりはない。
すべてをむかしに戻すことはできないし、完全に自給自足の生活ができるわけもない。
ぼくたちの親の世代や、その上の世代が、古い暮らしがいやでいやで、
いまの暮らしを選んだことを、ぼくはよく知っている。
ただ、それでも、いまが行き過ぎてしまったという思いはある。
ぼくたちがしているのはその揺り戻しなのだと思う。
たわんだ竹が折れる前にもとに戻ろうとするように。



アカルイミライ・プロジェクトの中心となるのが、
この再生しようとしている古民家だ。
この家こそ、上子島の集落のへそになるはずだ。
新しいムラの開かれた場所として。
アカルイミライ・プロジェクトは新しい家族のあり方を模索する場なのかもしれない。
この集落全体がひとつの家族になって、この家が居間として、いろんなひとがやってくる。
子供の面倒はみんなでみればいいし、そうやって子供も大きくなる。
血のつながりではない新しい家族のあり方はできないだろうか。



いまはまだ草にうずもれたこの家がどんなふうに生き返るのか、
思い描くこともできない。
これからするべきことを考えるとめまいがしてきそうだ。
けれど、こうして再生すべき家があり、畑があり、走り出すスタートラインに立った。



明日香と吉野のあいだのこの高取という場所は、
いまの日本がかたちづくられる原点となった場所でもある。
その古い時代からさまざまなことがあった。
高度経済成長期という時代に、古い日本はほとんどが消え去った。
いまのぼくたちは、メディアとか、テクノロジーとか、与えられた文化を別にして、
自分たちの文化をなにも持っていない。
けれど、そういう古い日本がいちど焼畑になったからこそ、
これからはじまる日々を新しく作っていけるのだという思いがある。

この日本のはじまった古い土地で、もう一度クニづくりをはじめよう。
ぼくたちがはじめるのはマツリゴトだ。
マツリゴトは、政でも、祭事でもある。
ぼくたちの、アカルイミライのために。